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会員番号0109/hanamaさんよりの寄稿
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(2)毛利元就の「三本の矢の話」と「イソップ寓話」
イソップ寓話が、日本の話の中に取り込まれたと思われる最も有名な例が、毛利元就の「矢折りの話」である。「一本の矢はたやすく折れるが、束にすれば折れない。兄弟力を合わせよ。」という例の話である。この話は、イソップ寓話では、次の話に対応する。
- 八六 (兄弟喧嘩をする)百姓の息子たち
- 或百姓の息子たちがよく兄弟喧嘩をやりました。彼はいろいろと言って聞かせましたが、言葉で説いたのでは、彼らをどうしても改めさせることができないので、事実によってこれをやらなければならないとさとりました、そこで彼は息子たちに薪の束を持ってくるように言いつけました。彼らは言われたことをしましたので、まず彼らに薪を束ねたままで渡して、それを折って見よと命じました。彼らがどれほど力を出してみても、折ることができませんでしたから、次ぎに彼は束をほどいて彼らに一本ずつ与えました。彼らがそれをやすやすと折りましたので、彼は言いました。「いいかね、倅たち、お前たちも、もし心を合わせていれば、決して敵に負けることはないだろう。しかし喧嘩をしていれば、直ぐにやっつけられるだろう。」
この話は、不和は人に打ち負かされ易くするが、一致は逆に力強くするものだ、ということを明らかにしています。
(イソップ寓話集 岩波文庫 山本光雄訳)
両者は非常によく似ている。しかし、中務哲郎氏の『イソップ寓話の世界』(ちくま新書)によると、毛利元就の矢折りの話が、直接イソップ寓話からの翻案であるかどうかは断定できなという。と、いうのも、世界各地に似たような話が散在し、日本にもイソップ寓話が伝来する以前に漢籍の話が伝わっているからである。もちろん、この話がイソップ寓話からの翻案であるという可能性が完全に否定されているわけではない。元就は天主教に寛大であったために、キリシタン招来のイソップ寓話が、早くに元就に結びつけられた可能性があるというのだ。また、南方熊楠などは、世界各地で似たような話が独自に発生したと考えても何ら不思議ではないと主張している。
中務氏は、毛利元就の話が、イソップ寓話のように、棒ではなく矢であることを重視し、矢が王の権威や誓いの不可侵性を象徴し、束ねた矢が部族の結束を象徴する事実を基に、武人元就の話も、このような文脈で書かれた、西北方アジアに流布す阿豺(あさい)の話の系列に連なるという説を支持しているようだ。そこで、この阿豺の話を見てみたいと思う。
- 吐谷渾(とよくこん)は4世紀から7世紀にかけて中国青海地方に拠った国で、王族は鮮卑種、民の多くはチベット系とされる。その王阿豺に二十人の子あり、死に臨んで子らを集め、おのおの一隻の箭を奉らせる。同母慕利延(ぼりえん)に命じて一隻の箭を折らせると、慕利延これを折り十九隻の箭を折らせたところ、折ることができなかった。阿豺曰く、「汝ら知るや否や、単者は折り易く、衆は即ち摧き難し。力を勠せ心を一つにし、然る後に社稷固かるべし」、言い終わって世を去った、と。
『魏書』巻一、一〇一 列伝第八十九
この話と、イソップ寓話の『(兄弟喧嘩をする)百姓の息子たち』とを比較してみると、「薪」と「箭」、「農夫」と「王」というように先に指摘されている通りの違いがみられるのだが、話の構成について比較してみるとこれまた違っている。イソップ寓話では、「束ねた薪は折れないが、一本ずつだとたやすく折れる」というような構成になっているが、阿豺の話では、「一本の箭は容易に折れるが、束ねた箭は折ることはできない」というように、裏返った構成になっている。それでは毛利元就の話はどのようになっているだろうか。
- 毛利大江元就死ニ臨ンテ子トモ大勢アリシヲ、暇乞ニ不残喚集、ソノ子ノ数ホト矢ヲ取寄テ、一本ゝヲレハ無子細ヲルゝモノ也、此ノ多クノ矢ヲ一ツニシテ折レハ、ホソキ物モ不折モノ也、各一味同心ノ思ヲナシテ、親ヲ親トスルにアリヌヘシト遺言ス……
『橋旧蔵聞書 巻五』
ここでも、阿豺の話と同じように、一本の矢は容易に折れるが、束ねた矢は折ることができない。というような構成になっている。このような構成の類似は、毛利元就の矢折りの話が阿豺の話からの翻案であることを示唆するものではないだろうか。しかし、毛利元就の矢折りの話には、もう一つ別なテキストがある。
- 毛利元就病重くなりて、その子を集め、兄弟の数ほど矢を取り寄せ、多くの矢を一つにして折りたらんには細き物も折りがたし、一筋ずつ分けて折りたらんにはたやすくおるるよ、兄弟心を同じくして相親しむべしと遺言せられしに、隆景その時、争いは欲より起こり候、欲を罷めて義を守らば、兄弟の不和候うまじと言いしかば、元就悦んで、隆景の詞に従うべしと言われしとぞ。
『常山紀談 十六巻二章』
こちらの話では、束ねた矢は折ることができないが、一本の矢は容易に折ることができる。という話になっている。しかしこの話は、前者の前橋旧蔵聞書からの改作とされている。
前橋旧蔵聞書のテキストは、不備とは言わないまでも、どうも練られていないような印象を受ける。『ソノ子ノ数ホト矢ヲ取寄テ』と言うのだから、子供に各々一本ずつ矢を渡したのであろう。そして、『一本ゝヲレハ無子細ヲルゝモノ也』と言うのだから、各々手にした矢を折ったのであろう。しかしその後に、『此ノ多クノ矢ヲ一ツニシテ折レハ、ホソキ物モ不折モノ也』と続くのが腑に落ちない。既に折ってしまった矢を束ねて折ったというのではないだろうから、もう一度各人に矢を配りなおしたのであろうか……。と、いう具合に、説明不足なのである。しかし先の阿豺の話では、『おのおの一隻の箭を奉らせ』た後、『同母慕利延に命じて一隻の箭を折らせると、慕利延これを折り十九隻の箭を折らせたところ、折ることができなかった』という具合に、一人の息子に命じたということでこの部分がうまく処理されている。
『常山紀談』では、この『前橋旧蔵聞書』の説明不足を補うために、「束ねた矢は折れないが、一本ずつならたやすく折れる」という構成にしたのではないだろうか。(阿豺の話から『前橋旧蔵聞書』のような話に変容するのは容易であるが、しかし、逆に『前橋旧蔵聞書』の説明不足を補う場合には、阿豺の話のように変容するよりも、『常山紀談』のように変容するのが自然である。)
しかし、このような構成にしたために、話の面白味が減殺されてしまっている点は否めない。というのは、前者の『前橋旧蔵聞書』では、「一本一本は容易に折れる矢でも、束ねると折ることができない。」というように、「束ねた矢は折ることができない」というのが「落ち」ということになるのだが、『常山紀談』では、「束ねた矢は折ることができないが、一本ずつならたやすく折れる。」というように、「強く見えるものも、一本ずつなら容易に折れる」というのが、「落ち」ということになるはずである。しかしここでは、「多くの矢を一つにして折りたらんには細き物も折りがたし」となっており、最初から、束ねた矢でも、一本一本は弱いものだということが詳らかになっており、これでは最初から落ちをバラしているようなものである。つまり、この「細き」という部分が余分なのである。改編するにあたってこの部分は省くべきであったのだ。しかし、省くことのできなかったそれなりの事情があったようである。
この「細き物も折りがたし」というような表現は、阿豺の話にも、イソップ寓話にも見られない。この他、多くの例(『イソップ寓話の世界
中務哲郎』『早稲田文学・毛利元就、箭を折りて子を戒めし話 南方熊楠』参照)を見てもこのような表現は見当たらない。つまりこれは、毛利元就の「矢折りの話」の特徴なのである。
一般にこの類の話は、「一人一人は弱いものなので団結せよ」というようなことを教えるための寓話であると考えられる。つまり、「一人一人は弱いものなのだ」という事実に気付いていない者に対しての戒めなのである。イソップ寓話では、息子たちは、自分たち一人一人は弱いのだと気付いていないので、喧嘩ばかりしているのであろうし、阿豺の話も、息子たちは、一人一人は弱いのだということに気付いていないということを前提としているのであろう。王子たちへの戒めであるのだから、満身を戒めるというような話であると考えるのが自然である。つまりこれらは、「繁栄を維持するための知恵」と言える。しかし、『前橋旧蔵聞書』の話を見てみると、「一人一人は弱くても、団結すれば強くなる」というような話であるから、「一人一人は弱いものなのだ」という事実を痛感している者に対して「団結すればその弱さを克服できる」ということを説いているのである。つまりこれは、「危機を乗り切るための知恵」ということになる。しかし、毛利元就は大大名だったのに、なぜ危機を乗り切るための知恵を子供たちに授けなければならなかったのであろうか。どうやらこれは、この寓話の成立
時期に関係があるようである。
- 毛利元就矢の教えの話は類話群の中でも最も新しいものであるが、これが作られたのは、山室恭子によると関ヶ原の戦い(一六〇〇年)の直後であったという。元就の孫輝元はこの合戦で西軍の主将として徳川家に弓を引いたため、中国全域を領していた毛利家は周防、長門の二カ国に減封された上、分家切り崩しの威しをかけられる。輝元はお家の危機を乗り切るために、一族の団結の強さを内外にアピールしようとして、かつて祖父の元就が子供たちに宛てた十四箇条の教訓状を世に吹聴する。それは毛利家の嗣子隆元、他家を嗣いだ吉川元春と小早川隆景の三子に宛てて、三人仲たがいせず、他家を相続しても毛利の二字をおろそかにするなかれと訴えるものであったが、この教訓状のイメージが寓話化するかたちで、矢の教えの話が作り出された、というのである。……
『イソップ寓話の世界』
ここから分かる通り、この話はまさに毛利が危機に瀕している時に作られたもので、団結して危機を乗り切らなければならない。というような切迫した状況のもとに作られた話であるようだ。そこで、『前橋旧聞書』では、阿豺の「繁栄を維持するための知恵」とも言える矢折りの話を、「ホソキ物モ不折モノ也」と「危機を乗り切るための知恵」の話に読み替え、これを反映して、『常山紀談』でも「細き物も折りがたし」となっているのではないだろうか。
こうして見ると、毛利元就の「矢折りの話」は、やはりイソップ寓話からの翻案というよりも、阿豺の話からの翻案という蓋然性が高いように思える。イソップ寓話では、「束は折れず、一本一本は折れやすい」というような構成になっているので、同じ「兄弟仲良くせよ」という話であるにせよ。これはどう読んでも「繁栄を維持するための知恵」であり、ここから即、「危機を乗り切るための知恵」の話に読み替えることができるとは思えない。しかし、阿豺の話のように、「一本では折れやすくとも、束にすれば折れない」という構成になっていれば、たとえそれが「繁栄を維持するための知恵」の話であったとしても、「危機を乗り切るための知恵」の話に読み替えることは容易である。