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会員番号0109/hanamaさんよりの寄稿
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(4)寓話の解釈と教訓
毛利元就の『三本の矢』の話は、直接イソップ寓話からの翻案ではないかもしれないが、寓話とは解釈のしかたによっては、どのような教訓でも導き出せるということを示唆する好例となっている。阿豺は、矢折りの話を使って、「兄弟仲良くして繁栄を維持せよ」というような教訓を息子たちに伝えたのであり、毛利元就は、同じ話を使って、「兄弟力を合せ危機を乗り切れ」というような教訓を息子たちに伝えたのである。もし、この寓話を革命家が用いたとしたら、「一人一人は弱いものでも、人民が団結すればどのようなちからもこれを打ち負かすことはできない。力を合せて国王を打倒せよ」というような扇動的な教訓だって導き出せる。このように、寓話とは、それをどのような状況で用いるかで教訓が大きく変容するのである。このような観点から次の話を見てみたい。
この寓話も読みようによってはどのような教訓でも導き出せそうだが、作者の意図するところは、文末に添付されている教訓からすると、「不相応な相手と付き合っている」者への忠告と考えられる。つまりここで、非難されているのは、二人の愛人をもっていることではなく、不相応な相手と付き合っていることなのである。このような観点から、この寓話を、例えば「自分より金持ちや、自分より貧乏な相手と付き合ってはならぬ」というような教訓を人に与えるために用いるとすれば、次のようになるのではないだろうか。
このような話で締めくくられそうである。しかしこの寓話も語られる状況が変わると教訓も一変する。『イソップ寓話の世界』には、次のような話が紹介されている。
ウィリアトゥスはこの話を、「二者に仕える者」への忠告と解釈しているのである。更にパエドルスは、「愛しても、愛されても、男はいつも女から毟られる」と反女性的な教訓で締めくくられており、バブリオスでも、「イソップはこの話で、女の手に落ちた男は哀れ、と言った。女は海のようにほほ笑みかけ、溺れさせる」と、これまた反女性的な教訓になっている。そして、ラ・フォンテーヌもこの系譜に連なり、男が髪の一件で女たちの身勝手を悟り、結婚を思いとどまる話にしている。そして日本の『伊曽保物語』では、色好みに耽るなかれ、二君に仕うべからず、となっている。
以上『イソップ寓話の世界』参照
これらは、翻案者がイソップの意向を無視して、思い思いに話の内容を解釈して教訓部分を変容させた顕著な例と言ってよいだろう。しかし、イソップ寓話にはこのように、話の内容を思い思いに解釈するとちょっとまずいことが起こる場合もある。
ご存じのように、この話は日本でも大変有名で、子供のためのイソップ寓話集などにも必ずと言ってよいほど収められている。しかしこの話、読み方によるとちょっとまずいことになる。それは、「なぜ亀は兎が寝ているのを起こさなかったのか?」という疑問である。子供にこんな風に問われたら、恐らく答えに窮してしまうだろう。しかしこれを、自分の才能に自惚れている者を戒めるために話して聞かせたとすれば、事情は変わってくる。例えば、試合を前にして、相手が格下だと侮って満身している選手を戒めるために、この話を聞かせたとしたら、
君のように、満身していると、この兎のように思わぬミスを犯して、そのスキを突かれてしまうことだってあるんだよ。
というような話で締めくくられることになるだろう。もしそれでも「どうして亀は兎を起こさなかったのか」などと言う者があったならば、それは所詮何を言っても無駄であるのだから、うるさいと一喝すればよいのである。ついでながらつけ加えると、この話は、「驕るなかれ」という話であって、決して「劣った者も努力すれば優れた者に勝つことができる」という寓話ではない。イソップ寓話には、劣った者が優れた者と競争するという話は、『狐と龍』『ゼウスとアポロン』『小烏と大烏』など数多くあるのだが、全て劣った者が惨敗し、「自分より優れた者と競争してはならぬ」という教訓で締めくくられている。
ルソーの寓話批判
ところで、ルソーは晩年に書いた教育論とも言うべき『エミール』で、ラ・フォンテーヌの『寓話』を批判しているのだが、まさにこれは、どうにでも読めるという寓話の危うさを指摘するものになっている。この中で次の『烏と狐』という話を真っ先に採り上げている。これはイソップ寓話では、一六五『烏と狐』に対応するのだが、まずこの話をラ・フォンテーヌの翻案で見てみたい。
この話は、日本ではそれほど有名ではないかもしれないが、ラ・フォンテーヌの寓話では、第一番目に掲げられ、フランスでは大変有名な話だそうだ。さて、ルソーはこの寓話を次のように批判している。
以下、ルソーは『烏と狐』の話について、一行毎に修辞的な考察を行っているのだが、どうも筆者には難癖をつけているだけとしか思えない。子供に理解できない話をしてはいけないというのなら、言葉を知らない赤ん坊には何も教えないつもりか。などと言いたくなる。まあ、この点はいいとして、ルソーは次に寓話の道徳的な考察をしている、それを見てみたい。
ルソーはこのように寓話の道徳的考察を行っているのだが、筆者もこれには全く同感である。『烏と狐』の話はどのように読んでみても、十歳の子供には向かない。この寓話で人生の厳しさを教えると言っても、「うまい話にだまされようとしている」十歳の子供などちょっと考えられない。恐らく子供は、この寓話を、間抜けな烏が利口な狐にやり込められる物語として読むことになるだろうから、子どもはみな狐が好きになるのも当然なのかもしれない。
子どもが寓話を理解できないとしてもそれは、おいおい分かってくるものなのだから、筆者としてはそれをとやかく言うつもりは毛頭ない。しかし子供がそこから間違った教訓を導き出しているとするならばやはり問題であろう。『亀と兎』の話でも、「どうして亀は兎を起こさなかったのか?」と尋ねる子供はむしろ正義感のある子なのかもしれない。普通は、亀が兎を起こさなかったことなど何とも思わず、自分が亀の立場にたったなら兎を起こさないようにしようと密かに決意しているのかもしれない。足の遅い子ならばなおのことだ。このような子供に、亀の卑劣さを揶揄するつもりで、「亀は勝つために兎に眠り薬を飲ませた。」などという話をしようものなら、子供は亀の謀略を絶賛することになるだろう。
相手に教訓を与えるための手引き書としての寓話
このように、寓話とは本来、語って聞かせる相手や状況を十分考慮して用いなければならないものなのである。逆に言えば、イソップ寓話とは、語って聞かせる相手や状況が最初から設定された物語とも言える。これを規定しているのが物語の最後に添付されている教訓部分ということになる。すると、イソップ寓話とは、ニュートラルな状態の読者が物語を読みそこから教訓を汲み取るというような単なる読み物などではなく、ある特定の状況にある者に対して実際的な教訓を与えるための手引き書というような性格があるのではないだろうか。このような観点からいくつか例を見てみたい。
この話、ニュートラルな状態で読んでも教訓を得ることはできる。しかし何と平板で奇警もないつまらない寓話だろう。一度目は死ぬほどびっくりし、二度目には恐れたが死ぬほどではなく、三度目は近寄って話をするほどになりました。ああそうですか。と答えるしかない。これが、一度目は死ぬほどびっくりし、二度目には恐れたが死ぬほどでもなく、三度目は近寄って話をするほどになり、そして四度目には近づきすぎて、五度目はなかった。狐は獅子の腹の中。教訓、死ぬほどびっくりしたとしても、食われてしまうよりはましであろう。というような話ならまだ分かる。
しかしこの話も「新しい環境に馴染めずにふさぎこんでいる人」へ語って聞かせたとすれば、
獅子を見て最初は死ぬほど驚いた狐だって、三度目には獅子とさえ話すほどになったのだから、あなただってこの環境に馴れさえすれば悩みなんて吹き飛んでしまうさ。
と、いうような適切なアドバイスになる。しかし、これとは違った解釈もある。中公文庫から『新訳イソップ寓話集』という本が出ているのだが、この本は、塚崎幹夫氏が、シャンブリ版のイソップ寓話集を独自の視点からグループ分けを行い、配列し直したものなのだが、この本によるとこの話は、「慣れを警戒せよ」というグループに入っている。しかし、「慣れを警戒せよ」というような話ならば、先に見たような、狐が最後に食われてしまうような話でなければ教訓として成り立たないと思うのだがどうだろうか。
更に次の話を見てみたい。
この話も、ニュートラルな状態で読んでも教訓を得ることはできる。しかし、蟹の母親はなぜ、わざわざ「横這いをしてはいけませんよ、……」などと本性に反することを言ったりするのか、どうもしっくりこない。イソップ寓話にはこの他にも数多く、なぜわざわざこんなことを言わなければならないのか?という話がたくさんあり、最初に読んだときはどうも胸の奥がひくひくする思いをした。しかし、もしこの話を、例えば、自分はだらしない格好をしているのに、子供にだらしない格好はしてはいけませんよ。などと言っている親に対して実際に語って聞かせたとしたらどうだろうか。
あなたの言っていることは、蟹が横這いをしてはいけないと、本性にもないことを教えようとしているのと同じように間抜けなことだよ。
というような強烈な教訓になる。しかしこの場合皮肉が利きすぎている。これは人に教訓を与えるというよりも、人を揶揄する話と言えるかもしれない。
このようにイソップ寓話を実際に人に語って聞かせ、相手に教訓を与えるというようなことは、別に珍しいことではない。例えば我々は、人に忠告するのに、「北風より太陽だよ」などと言うことがある。この場合は、相手も「北風と太陽」の話を知っているということを前提とする場合が多いので、話の内容を語って聞かせることはあまりないだろうが、それにしても、これは厳しく当たろうとしている者に対して、優しく接した方がよいと諭すために用いるのである。元来イソップ寓話とは、このように、ある、特定の状況におかれている者に対して、実際に語って聞かせ、教訓を与えるというような、いわば教訓を垂れる上での手引き書、というような性格のものだったのではないだろうか。それが、ソクラテスをはじめパエドロス、バブリオスなどによる、韻文化がなされる過程で、このような手引き書としてよりも、物語性が重視されるようになり、読者が物語を読んで、そこから教訓を汲み取るというようなスタイルに、変化していったのではないだろうか。
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